(元)限界高専生の限界日記

元留年生。某化学メーカー工場勤務。

朝から発達ムーブをキメてコンサータをもらった回

はやく人間になりたい。

 

私はADHDだ。脳検査的なやつをやったわけではないが、昔から自他ともに認める忘れん坊で、やる気が全くもたず、不注意な人間であるという役満が揃っているのでADHDと断言しても差し支えないだろう。留年してから母にそれを疑われ、メンタルクリニックにかかった時にADHDグレーっぽいということがわかった。それより前に何となく自分は発達だな〜〜とは薄々気づいていたのだが、やはり第三者に断言されると気分が多少楽になる。その時は「また大変そうだったらお薬でも飲みましょう〜」といった感じで別れ、そのまま2年が経過してまたヤバいなこれはと思い始めたので今年の初め辺りからADHDのクスリをもらう手続きをし始めた。

 

新学期は発達ムーブと共に

時は流れ、今日。コンサータを貰う手続きは既に4月くらいに完了しているが、例の疫病のせいで病院まで行く事ができないでいた。その矢先に学校への登校が始まるというアナウンスが入った。ちょうどいいタイミングだ。学校に行くついでにコンサータを貰いに行こう!

と、意気込んだまではよかった。そう一筋縄では行かないのが私の人生だ。

学校に登校するには朝のうちに体温測定を行い、高熱がないことをメールで送る必要がある。この手続きをある時点までにしないと登校できないのだそうだ。

賢明かつ知能の発達に遅れのある諸君ならば、これから何が起こるか容易に予測できることだろう。

そう!体温を!測っていないのである!!

つまり学校に入ることができない。開校初日からやらかしたのだ。

頭の中にタスクは存在したのだ。体温を測らなければならない、と。ただ、それが必要な時だけ頭から抜け落ちているのである。そして、期限を少しすぎた頃にふと脳裏をよぎって強烈な自責の念にかられる。このパターンなんべんやったら気が済むんだ…

これに気づいたのが校門をくぐった瞬間だった。もうね、アホかと。馬鹿かと。

先生のメールには「自前の体温計があればそれで測って入るのもいいよ」的なことが書いてあったので、とりあえず近場(とは言っても半径10㎞くらいだけど)のドラッグストアを血眼になって探してみる。授業に興味があるんじゃない、留年とクラスメイトの白い目が怖いだけなんだ。

ま、体温計なかったんですけどね。

諦めて「体温測ってないので今日はやすみま~~~~~すwwwww」という旨のメールを送り付けておいた。

図らずも暇になってしまったので病院へ行こう。今日の放課後行く予定だった病院へ。

何人かのオバチャンと共に、待合室でボケーっとする。先生からメールが来る。

「遅刻でもいいから学校来いやゴルァ」

はい。でも午前の授業は絶望的なので昼から行きます~~~。

結局、1時間半くらい待った後先生と面会し、無事コンサータの処方箋とIDカード的なやつ(最近こういう薬を悪用する輩が多いらしいので)をもらった。

この時点で昼だったので、とりあえず学校で腹ごしらえをしておこう。授業はちゃんと出る。

して、放課後に薬局で処方箋をもとに無事コンサータをもらう。私はこれがコンサータ初体験なので、体重比では少なめの27mgで。

とりあえず2週間飲んでみて様子を見るとのこと。バカみてえに高いもんだと思ってたけどこの量ならそうでもないらしい(それでもけっこうするけど)。

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明日から早速飲んでいく。特筆するような変化があったら、またここで殴り書くことにする。

部屋を片付けた

うわぁ、我ながら本当にチラシの裏みたいな記事タイトルだぁ…

部屋の乱れは心の乱れ

ここしばらく、心が結構荒んでいた。なぜ心が荒んでいたかは詳しく説明しないが(今までの記事で書いてるし)、とにかく荒んでたったら荒んでたのだ。

心が荒むと、日常生活のすべてがめんどくさくなる。それにより、部屋が散らかる。プリント類は床を埋め尽くし、机は倉庫と化し、黒い電源コードはイカスミパスタみたいになる。

散らかった部屋は、人間の生気を少しずつ奪っていく。気づかないくらいじわじわと。

心の乱れが部屋を乱し、部屋の乱れがさらなる心の乱れを引き起こす…という悪循環を止めなければならなかった。突発的な考えだった。

 

まずはコーヒーを小さなクッキーと共に4杯くらいがぶ飲みする。最近お母さんからお古のコーヒーメーカー(2004年製、コーナンのやつらしい)をもらったおかげでインスタントよりそこそこうまいコーヒーがいつでも飲めるようになって一気にカフェイン中毒が加速してしまった。頭がいい感じに温まってきたら行動開始だ。

とはいっても、大したことはない。本を本棚に戻し、ホコリまみれの机をふき取り、ゲームキューブを机から引きはがして棚にしまい、プリントをとりあえず全部ファイルにブチこみ、コンセント類を全部電気系の小物を入れる箱に投げ込んだだけである。もともと巨大な部屋というわけでもないので、少しきれいにするだけでもガラリと印象が変わる。裏を返せば、ちょっと散らかしただけですぐ汚部屋と化すということでもあるのだが…

潔癖症ならまだまだ片付けるべき場所が多くあるのだろうが、私はこの程度の綺麗さで十分気分がよくなる。どうせほっといたらまた汚れるんだし…

有益な情報をまとめたブログもいつか作ってみたいけれど、こういうとりとめもない日常風景を書き残しておくのもまたいいと思う(てかそれしかやってない件)

自信がない?しょーがねーだろ留年生なんだから

先日受けたお祈りメールの傷がまだ癒えず、むしろだんだん化膿しているように思う。

「能力面は問題ないのですが…」

高専の就職率は非常によく、どれだけ不景気でも必ず内定はもらえる」という言葉を、私は何度も何度も在学中に聞いていた。正直、初めはそんなことどうでもよかった。理科が好きだ、実験が好きだ、だから高専で化学をやる。入学の動機はそれだけだった。

将来は専門職としてどこどこでどんな偉業を…とか、どんなキャリアを積んで、将来的にはどんな役職に…とか、そんなことは1ミリも考えていなかった。普通みんなそういうことを考えながら入学するのかな。

就職率についてどうでもよかったのは事実だが、自分の中ではどこかその考えがじわじわと体にしみ込んでいたようだ。働きたくないけどクソめんどくさい就活をするのはもっといやだ。高専ではめんどくさい就活をやらなくていい、と。

なので早々出鼻をくじかれてお祈りを受けたときは動揺した。やっとこのクソイベから解放されると思っていたのに…初めは「あっそ、どうせ期待してなかったし、別に企業は星の数ほどあるし…」と強がってみたりしたが、やはり努力がなかったことになるのにはむなしさを感じざるを得なかった。

お祈りメールには、「能力面は問題ないのですが、自信のなさが感じられ少し不安に思いました(要約)」というお祈りの理由が記されていた。先生はそれを貴重なメッセージだと伝えた。

確かに、ただぶっきらぼうにお前は落ちたと伝えてくるよりかは理由がついていた方が丁寧だし、次にもつながる。でも、「自信がない」なんてどうやったら克服できるんだ?そもそも、それは克服するべき事柄なのか?

留年生は電気自信の夢を見るか?

そもそも、自信というものは持とうと思って持つものではなく、何かに挑戦し成功体験を積むことの副産物として得られていくものだ。テストに合格した。すごいことを成し遂げた。人に認められた。オレは成功できる、自信にあふれているぞ。自信ってそういうことなのではないだろうか。

逆に言えば、失敗をすればするほど、また、その失敗の規模が大きければ大きいほど、自信というものは失われていく。勝負に負けた、彼女に振られた、ウンチを漏らした、ああオレはダメな人間だ、何もする価値がない。そうやって、自信を失うほど何かに挑戦する意欲が削がれていく。例えば、留年なんて最大級の失敗体験といえるだろう。

いくら高専生の留年率が高いとはいえ、留年というのは学生にとって屈辱的なものだ。今まで同じクラスにいた人と離れ、新しく入った先では初め腫物を触るように扱われ、𠮟咤激励する人はそんなにいないけど代わりに同情され。高専生なんて同年代の高校生などに対して専門的な知識と技術を持っていることくらいでしかマウントを取れないような哀れな生き物なのに、その知識がないよという烙印を押されたら何が残るというんだ。

もちろん、留年したら人生が終わるわけではない。望むと望まざるとにかかわらず、苦しい生は続く。留年生はそこで今までの自分の問題点に気づき、解決しようと試みる。また、大量に生まれた空き時間から新しい世界を見出す。これが理想的な留年生のサクセスストーリーである。自分もこの枠に入っていないことはないが、なんとか人並みに「やっていき」ができているという実感とともに、心の底には冷めた感情が常に存在する。何をしたって留年した事実がなくなるわけではない、どうせ自分は人より劣っている人間なのだから努力することに意味などない、という諦めのような感情が。こんなんで自信を持てという方が酷である。

基本的におとなしい性格で、少数の親しい人の前以外では口数が少なく、発言する前に考え込んでしまうような人間である。こんなのを好き好んで採りたがるような変な会社はそうそうないので、面接ではできるだけ前向きで積極性があり行動力のある人間を演じるよう試みた。自分ではなかなかうまくいってたんじゃないかなぁと思ったのだが、人事のプロは私の本質をいとも簡単に見抜いていたようだ。いくら表層を取り繕っていても、自信のなさは言葉の端々に現れてしまうようだ。

私の自信のなさはそうなろうと思ってなったわけではなく、生きていたら勝手に失敗しまくっていて自然にそうなっていただけなのだ。そこを否定されてしまうと、もうどうしていいか分からない。内定のために自分の性格を無理のない範囲で偽っていた自分が言っていい事ではないけれど。

しょーがねーだろ留年生なんだから

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こんな自分で自分の可能性を狭めるようなことは言いたくない。でも、できることとできないことってもんがある。祈られた留年生にただ「自信を持て」というのは、うつ病に苦しむ人に「はやく元気になってね」と言うようなもので何も好転せず焦燥感を増すだけだ。(鬱になったことないのでわからんけど)

むしろ、そこで「うーん、今までの自分に反省だ。さあ自信を持つぞ!」となったならば、手に入れたものは自信ではなく妄信、蛮勇の類だろう。

…そういうことなのかもしれない。どういうことかというと、世の人々が「自信」という言葉を使う時、それは成功体験に基づいた「自分なら成功する」という感情ではなく「知らんけどなんかいける気がする」という根拠のない蛮勇のことを指す場合があるのではないか。

つまり、「自信のなさを感じられる」というのは「失敗体験に執着しすぎ」であり、「自信を持て」というのは「何も考えるな、当たって砕けろ」と言い換えられるわけである。

一見馬鹿らしく思えるが、たぶんそういうことなのだ。私がするべきなのは、留年という過去の失敗体験を超えるほど強烈な成功体験を経験することではなく、頭を空っぽにしてオレはできる、オレはできる、オレはできる…と根拠のない妄想で頭をいっぱいにすることなのかもしれない。長期的に見ればそんな妄想はむなしい人生を生むだけかもしれないが、少なくとも短期的に見ればそっちの方が楽だ。

どうせ面接官だってそんなに深く考えてこのメールを送ったわけではない気がする(←失礼)。なんか来たけど覇気がないし三色チーズ牛丼オタクっぽいしオドオドしてるから落としちゃえ、くらいのノリだろう(←大変失礼)。

たった1社のたった1文にここまで振り回される私さんサイドにも問題がある。もし自信という名の妄信があればきっとそうはならず、またすぐ前を向いて歩き出せたことだろう。こうやってウジウジと1文についての解釈を書き殴っていけばいくほど、自信のなさを露呈しているようなものだ。

やはり自分の考えを一度噛み砕いて言語化し、文章として書き表すのは大事だことだとあらためて気づく。自分がどう思っているのかを他人の視点のように確認することができるし、主観的には何の問題もないように思えたことも俯瞰してみると結構変なところが多かったりする。Twitterのギスギスした空気から逃げるようにブログを書き始めたが、なかなか楽しいと分かったのでしばらくこの習慣を続けていきたいと思っている。遠隔授業が終わり普通に登下校するようになったときにブログを更新できるほどのMPが余っていればだけど…

アマゾンプライムビデオでポケモンばかり見ている

 

 

現実世界も電脳世界もピリピリした状態が続いている。救いは物語の中にしかない。

争いを好まぬ種族

あのウイルスが初めて観測されたニュースから結構な日がたった。あれから世界中に感染は広がり、ステイホームが叫ばれた。人々は互いを恐れ、時に憎み、時に家でプレイステーションをする日々が続いた。インターネットには暇人が溢れ、常にどこかで争っていた。

そうこうしているうちにもやれなんとか法案だの、やれ誹謗中傷だの、やれなんとか差別だの、人々はめんどくさい問題を起こしまくる。そのような争いを見ていると、それが正しいかどうかに関係なくつらい気持ちになる。

こういうことをツイッターでいうと何かしらの怒られが発生しそうなので一応明記しておくが、私は争うこと自体を問題だとは考えていない。自身の権利や自由のために声を上げ、勝ち取るために戦うことを否定するつもりなど毛頭ない。問題は、今の自分にそのような問題について頭に入れたり、考えたりするほどの脳の余裕がないことなのだ。

差別や政治の問題が人間全体にとって大事なことだということはわかるが、今の僕という人間にとっては化学工学の単位や就職について考えることの方がよっぽど深刻で早急に解決するべき問題だ。世界の問題に目を向けるのは結構だが、自分のことも何とかなってない人が他人の問題に首を突っ込んでいる場合ではないと思う。(と、自分の考えを詭弁で正当化してみる)

そのように毎日がカツカツであることに加え、元から様々な事象に対して必要以上に心を痛めることが多いものなので、現実とインターネット上で起きる争いを見る度に心のHPというか、SAN値というか、そういうものが音を立てて削れていくのを感じる。

普段なら現実で受けた傷をインターネットの世界(自分が「インターネット」というときは、だいたいツイッターのことをさします)で癒していたのだが、今では現実でもインターネットでも争いが絶えない。居場所がなくなった自分は、アニメに逃げることにした。

現実がつらいときほど、アニメはたのしい

まあ今までそこまで色々なアニメに入れ込んでいたわけではないんですけどね。唯一胸を張ってガチでハマっていたといえるものといえばMy Little Pony Friendship is Magic(邦題:マイリトルポニー トモダチは魔法)だけだ。ここでこれについて語ると本が一冊できるので割愛するけど…

思えばしばらくMLPからも離れていた。人生がそこそこいい方向に動いていたのと、学業が忙しくなってしまったからだろう。あと最終回を迎えてしまったから…

あと最近はポケモンソードシールドの影響で新しいポケモンのアニメをちょこちょこ観ている。ラビフットかわいいよラビフット

今回、上に述べた通り心を癒す場所がなかった自分は、登録しっぱなしであまり恩恵を受けていなかったアマゾンプライムビデオに赴き心の平穏をもたらしてくれる作品を探していた。というより、もう観るものは決めていた。プライムビデオでは初代から最新までポケモンのアニメが見れるのだ。

マサラタウン出身のサトシが様々な世界をポケモンとともに旅する。この基本的な形は昔から今まで変わらない。すごく昔ポケモンのアニメをよく見ていた記憶があるが、内容はほぼ覚えていない。

働きたくない自分でもなんとか入りたいと思えた企業からお祈られ、授業がなんも分からず、卒研が難航していた心に、この楽しいアニメはよく沁みる。

ポケモンはかわいいし、バトルはするが単純明快でかっこいい。グロテスクだったり過激だったりすることは自分の知っている限りでは一度もないし、それでいてしっかりやるときはかなり骨のあるストーリーがある。

多分、1年前の自分がこれを見ていても今ほどしっかり見入ることはなかっただろう。これは体感的なものだが、アニメは現実がつらいときほど没頭できる(どちらかというと、依存とか執着と呼んだ方が適切かもしれない)留年した僕が言うんだから間違いない(爆)。そう考えると、つらい時「今アニメ没頭チャンスじゃんラッキー!」くらいの心持ちでいられてなかなかいい感じなのではないだろうか?(要検証)

「ながら見」ができない

よく、同人作家などが同人誌作成をしながら作業用BGMのようにアニメを再生しているというツイートを見る。それを行っている人からすると常に耳や目に程よい刺激が入ってくるおかげで作業がはかどるのだろうけれど、自分にはどうにもそれができない。両方に意識を向けてしまい、結局どちらも中途半端にしか手につかないのだ。

完全に個人的なこだわりでしかないのだが、何かの傍らでアニメや映画を見るという行為が苦手だ。ご飯食べながら…くらいならなんとかできるけど。なんとなく「せっかく時間をとって観るからには、正面からしっかり向き合わねば」といった風に考えてしまい、ながら見は作品に申し訳ないように考えてしまう。

そのせいで、もともと気軽に見れるはずだったアニメなどからさえ足が遠のいてしまい、その代わり適当に見れるtwitterを開き場末の喧嘩を見て勝手に心を痛めたりするのだ。最悪の悪循環か?

これからはもう少し雑に、肩の力を抜いて色々観漁っていこうと考えている。休養ってそういうものだろう。

5年生になってからというもの、1度も授業を「理解」ったためしがない。きっと遠隔授業のせいに違いない!

まあ、それ以前は完全に理解していたのか?と聞かれるとなんもわかってなかったのだが。

突如始まる遠隔授業 学生、教官、阿鼻叫喚

春休みのうちからなんとなくヤバいな~~、とは思っていたのだ。海の向こうで暴れまわっていた感染症がいつしか対岸の火事なんて言ってられない状況になり、世界中が突如地獄と化していく。だんだんテレビの話題がアレ(できるだけ『新型コロナウイルス』という名前を目にしたくないのでお茶を濁しまくっています)一色になり、父はテレワークを開始し、僕と友人のタイ旅行計画が頓挫してしまう。

様々な店舗や学校が休みになっていくなか、弊校も同じように始業式を遅らせるという連絡が入った。初めは「うっひょ~~い!春休みが増えたよやったねたえちゃん」くらいのノリでいたのだが(←最悪)、卒業研究や就活のことを考えるとよいはずもない。それから対面で行うはずだった始業式をオンラインで済まし、授業開始予定日から1か月が過ぎようとしていた辺りから本格的に遠隔授業開始のお知らせが届いた。これがな~かなかにしんどかった。もう遠隔授業が始まってから1か月ほど経つが、いまだにうまくいかないことが多い。先生も同じようにしんどいらしい。そりゃあそうだよな、今まで何年も授業やってきた中でこんな形態の授業なんてしたことないんだし。

「家で集中できないマン」の苦労

世界には2種類の人間がいる。自宅で仕事ができる人間とできない人間だ。 出典:pha「ひきこもらない」、幻冬舎(2017)

僕は家で集中できない。全くと言っていいほどできない。まあ家の外でもあんまり集中できないけど。

だいいち、僕は自分の部屋を集中できる場所としてカスタマイズしていない。ちゃぶ台の前にはテレビ、上にはゲームキューブ(最近風のタクトばっかりやっています)、右にはベッド、左には積読本で満たされた本棚、手元にはスマートフォン。こんな環境で集中しろという方が難しい。なら別の場所でやれという話だが、あいにくリビングには父という先客がいる。学業のためとはいえ、さすがに仕事の邪魔はできない。基本的に僕は誘惑に弱いので、授業中先生の話が全く頭に入ってこなかったり限界感を感じたらすぐにベッドに飛び込んだり積読本に手をかけたりスマホtwitterをしたり昔のwindowsに元から入ってたピンボールゲーム※で遊び始めたりしてしまう。

※これ、windows10には入っていません。わざわざネットでダウンロードしてまでこのピンボールゲームで遊ぶダメ人間の極み。

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windowsに元から入ってるピンボールゲームとはこれのことです

 

先生の監視の目がないと人間はここまで堕落するものなのか、と自分で自分に失望してしまった…こんな体たらくで授業が頭に入るわけもなく、とうとう今までやってきてしまった。

 

精神ースライドーを加速させろ

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遠隔授業で苦労しているのは、何も学生だけではない。いや、どちらかといえば先生の方が苦労しているのではないだろうか。高専の先生なのでPCの使い方については問題ないだろう(たぶん)。問題は確立した手法がないことと学生の顔が見えないことだ。

まず、確立した遠隔授業のやり方というのが存在しないので、出席の確認、授業の進め方、課題の出し方までかなり人によって違う。授業開始時にカメラとマイクを通じて出席をとる先生もいれば、フォームを使った出席確認をとる先生や課題の提出をもって出席とする先生もいる。学生からしてみれば、全部方法が一定している方がいいに決まっている。

そして、学生の顔が見えないこと。普段から学生というのは授業に対してレスポンスをしない生き物だが(ごめんなさい)、対面授業の場合、少なくとも表情や反応を見たりすることで多少状況をつかむことができる。遠隔授業の場合、これをすることすらできない。ひたすら壁に向かって話しかけるようなものである。そう考えると先生マジつれぇな…

なので、授業のスピードが上がってしまうことがままある。パワーポイントのスライドを授業に使っている先生ならなおさらだ。スライドにはひたすら難しい数式と図がずらり、先生はなんか喋ってるけどなんもわからん、気が付いたら次のスライドに行ってる、さらになんも分からん…という悪循環が自分の中で起こっている。

PCで授業を受けているとき、スクリーンショットが撮れるのはとても助かる。頭に入らなくても、とりあえず何も考えずWindowsボタンとPrtScrキーを押せば少なくとも記録することはできるからだ。唯一の問題は、記録するだけでは理解できないことくらいだ。

ならば先生に頼らず自分で勉強すれば解決する話ではないか、と思う方もいることだろう。確かにその案は現実的かもしれない。私がすぐにベッドに飛び込んだり積読本に手をかけたりスマホtwitterをしたり昔のwindowsに元から入ってたピンボールゲームで遊び始めたりしてしまうような学生でなければ。

 

弊校、遠隔授業やめるってよ

少し前に全校宛にメールが届いた。どうやら緊急事態宣言の終了を受けて弊校もそろそろ対面授業を開始するらしい。ようやくだ…

学校に行けるということをこれほど感謝した日はない。遠隔授業/業務が性に合っていた人もきっと多いかと思うが、少なくとも自分には合わなかったようだ。意外だった。

昔からどちらかといえばインドア派で、休日はゆっくりとゲームや読書、ネットサーフィンに興じてきた人生だった。外の世界も悪くないが、ずっと居続けるには刺激が強すぎた。こんな人間なので、てっきり家の中で勉強するのは最高かと思っていた。

今回、このような形で半強制的引きこもり遠隔授業生活を経験して、家の中に真面目な学業を持ち込むことの息苦しさを感じた。リラックスと集中の気分の切り替えがうまくいかなかった。ある意味、家の中と学校がそれぞれリラックス/集中を分け隔てる別の聖域のような存在になっていたのだろう。

外の刺激も、内向的な自分にとって程よい刺激となっていたのだと認識した。家にいると、どうしても刺激がなくダラダラしたり意味もなく落ち込んだりしてしまうことが多かった。これから週5日実際に学校に出向くことで少しは気晴らしになるだろう。

どこで読んだかは忘れたが、どこかのえらい人が「人は環境に左右される」的なことを言っていた。周りの環境に影響されて人は真面目になったりだらけたりはっちゃけたりするものだということだ。その説について自分は今まで反対するでも賛成するでもなかったが、今なら心から賛成することができる。たしかに身の回りの環境は大事だよ…

 

学校が始まったら学校近くにあるインド料理店に行きたいなぁ。焼き立てのナンが食べ放題で最高なんだよね…てかやってるのかな?せっかく出向いてテイクアウトのみです、とか閉店ガラガラだったら悲しい。

初お祈りメール。つらい

※ここはインターネットのチラシの裏みたいな場所なので有益な情報はないです。ここにある文章はいかがでしたかブログと同じくらい無益なので、有意義な人生を送りたい方は帰って家でプレイステーションをしてるといいと思います。

 

誰だよ、高専は就活に有利なんて言ったの…推薦してもらったのに落ちちゃったのだが…

僕だって初めから舐めてかかったわけではない。ちゃんと先生と何度も相談しながらエントリーシートは完成させたし(4回くらい修正した)、面接対策もかなり手伝ってもらった(具体的には6回くらい問答集を修正し対面での練習もかなり行った)し…

準備万端で片道2時間かけて面接行って、内心「うしし、これは合格ktkrでござるなwwwでかい会社だからコンプラも教育もちゃんとしてるだろうし残業もきっとない、残りの人生easy easyでございますわwww最高www」くらいの舐めた気持ちで帰宅して数日でこれなので正直心にくるものがある。

先方がお祈りした理由を教えてくれたのはありがたいが、その理由が「能力はダイジョブそうだけど、自信なさそうだったんで…(意訳)」っていうね。そりゃダメだわ…

これが「基本的な言葉遣いがなってない」とか「ほしい職種とあなたのやりたいことが食い違ってるから」とかならまだ救いようがある。前者は勉強すればいいし、後者はやりたいことにあった企業を探しに行けばいい。「自信がない」とかいう性格はそうそうすぐに変えられんのじゃ!6年間根暗な三色チーズ牛丼オタクくんを務めてきたわしには特になぁ!!(なぜ高専は5年制なのに6年間かって?お前も高専生ならばわかるだろう…)自信のないコミュ障新卒を採りたい会社なんかあるか?企業が学生に求めるものとしてコミュニケーション力!リーダーシップ!向上心!とかなんとかが声高に叫ばれる昨今、自分のような向上心のない馬鹿に居場所などあるのだろうか?

まあそもそも初お祈りが6月頭ってクソ遅いし完全にスタートの時点で終わってるようなもんなんですけどね。でもせっかく大企業から求人が来てるんだから大企業行きたいじゃないですか…なぜ大企業にこだわるのかって?そりゃアンタ当たり前でしょうが、ゼニですよゼニ。というのは半分嘘で、休日がちゃんとありそうなのと教育制度も整っていそうなのと残業が少なそうだからです。3年生の時インターンシップで行った中小化学メーカーは残業することを前提にスケジュールが組まれているとかいうキ〇ガイぶりだったので嫌悪感がすごいのです。

上の段落を読み、賢明な読者ならこう思ったことだろう。「給料も休日も教育制度も残業も、どれも労働条件に過ぎないじゃないか。仕事選びの基準として、ほかにもっとこう、やりたいこととか興味とか向上心とか…そういうのはないのかね?」と。はい、ないです(無慈悲)。もとはといえば理科好きが高じて高専とかいう魔境に足を踏み入れたというのに、もう化学や生物学全般への興味が完全に消え失せてしまったんですよね。どうしてこうなった。

大学生はこういうお祈りの挫折を何十回も何百回も経験して、やっと1つの御社への内定をキメるんですよね…?本当に意味不明です。こんな絶望感を味わい続けて自分なら生きていけないです。

どうすればメンタルを鋼にして自信たっぷりな人間になれるんだろうなぁ…筋トレ?