(元)限界高専生の限界日記

元留年生。某化学メーカー工場勤務。

ゲームに自由度を求めるのは間違っているだろうか

今日、いつものように廃人のような目でツイッターを眺めていると、このようなツイートに出会った。

様々な実況者が取り扱い、いまだに人気の絶えないゲーム「Minecraft」についてのマンガだ。建築、MOD、天空トラップ…できることは無限大だが、飽きは突然やってくる。

僕はこのツイートの最後の1文「自由度が高いゲームは突然飽きる」ということを何度も実際に体感している。しかし、自由度が高いゲームは長く遊ぶに値しない、くだらないゲームなのかというと、決してそんな風には思っていない。これはゲームそのものの問題ではなく、プレイヤーがどうゲームに向き合うかという部分が問題なのだ。

僕自身、自由度が高いゲームの「楽しみ方」がずっとわからずいたのだが、最近になってやっとそれをつかんできた気がする。

近年のゲームの評価基準の1つとなっている「自由度」について僕が思うところや、どうすれば自由度が高いゲームを最大限に楽しめるか、経験して分かってきたことを考えの整理がてら書き散らしてみたいと思う。

 

 

 

まとめ

思いのほか長くなってしまったので、まず言いたい内容をざっくりまとめておく。忙しい人はここを見ればだいたいわかります。

  • 「自由度」はゲームの評価基準の1つではあるが、これだけがゲームの面白さを決めるということは決してあり得ない。
  • 「何でもできるゲーム」というのは、言い換えれば「何をするべきか自分で考えて決めなければいけないゲーム」であり、楽しむには少しコツがいる。
  • 自由度が高いゲームを最大限に楽しむには、何を楽しむのか、何を達成することを目標にするのかを自分で見つけ出すという過程を踏むべきだ。また、その目標はコレクション要素などの「時間はかかるが終わりがあるもの」か、建築などの「創造的なもの」であると好ましいのではないだろうか。

 

「自由度」とは?

まず、ここでいう「自由度」とは何か今一度問うておこうと思う。

一口に自由度といってもいろいろな見方があるので、ここではいったん①「プレイヤーがゲーム内でできることの幅広さ」と②「ゲームで与えられた目的の明確さと、これを達成することの重要さ」という点から自由度を評価してみる。

例としてスーパーマリオブラザーズを挙げてみよう。

①マリオは「前後に移動する」「ジャンプする」「しゃがむ」「ファイアボールを投げる」「土管に入る」「コインをとる」「敵を踏みつける」「ブロックを破壊する」などの行動をとることができる。しかし、「奥/手前(つまり背景の山など)に移動する」「来た道を戻る」「ツナギから水着に着替える」「ピーチ姫救出をあきらめて配管工として余生を過ごす」「クッパ軍団に寝返る」といったことはできない。前者の「できること」の数が多いほど、また、後者の「できないこと」の数が少ないほど、「自由度が高いゲーム」といわれる。

スーパーマリオブラザーズの目的は、「コースを踏破してクッパを打倒し、ピーチ姫を助け出す」ことである。単純明快だ。この目的を達成するための行動をとらないとただ1-1で立ち尽くすだけで1日が終わり、スーパーマリオブラザーズをやる意味がない。ゲームの目的が明確であるほど、また、その目的の達成が重要であるほど、自由度は低いといわれる。

 

ゲームの面白さは自由度に依存する?

先ほどの例でみると、スーパーマリオブラザーズはかなり自由度が低いゲームに見える。だって、GTAと違ってマリオにアサルトライフルやロケットランチャーを持たせて戦うこともできないし、マイクラと違って次に行く場所が決まっていて、そこに行かないと死んでしまうし。

でも、1985年から2020年までのどこかを生きたゲーマーの中で、スーパーマリオブラザーズのことを面白くないという人間はどれだけいるだろう?自由度だけでゲームの面白さが決まるならば、マリオが任天堂の顔になることもなかっただろう。

自由度の高さをゲームの評価基準の1つに置くことに異論は全くないが、自由度の低いゲームが面白いはずもないと切り捨てることには人生を賭けてでも反対したい。

逆に、自由度が高いゲームは突然すぐ飽きるのでつまらない、というのもあまり賛同したいと思わない。前までは僕もそう思っていたが、それぞれにはそれぞれの楽しみ方というのがあり、そこに上下はないというのが現時点での自分の意見だ。

 

「なんでもできる」≒「何をしていいかわからない」

さて、本題に戻ろう。自由度が高いゲームについて、僕は最近まで楽しみ方がよく分からないままでいた。なぜって、自由というのは自分には難しいからだ。

弟(小学生)に、「ギャングスターベガス」という、スマホで遊べるGTAみたいなゲームを紹介した。僕がそれをどこで知ったかは忘れたが、とにかく弟がGTAの実況を好きなのできっと気に入るだろうと思って。僕はGTAのことはよく知らないが、あのゲームは治安の悪い街のギャング的なおっさんになって、略奪あり殺人あり犯罪あり、なんでもすることができるゲームらしい。まさに自由の権化みたいなゲームだというイメージ。

弟はそれを大層気に入ったようで、僕に勧めてきた。遊んでみたけれど、楽しみ方があまりよくわからなかった。暴力反対!野蛮なのはよくないとおもいます!みたいなことを思っていたわけではなく、別に車奪ったり人殺さなくてもゲームは進むし、やる必要なくねえか…めんどいし…と思いながら交通ルールを守って道を渡り、ストーリーを進めたりしていた。割と早くアンインストールした。

自由というのは何よりも素晴らしくて称賛されるべき、甘美な言葉であるかのように扱われることがあるが、実際はそうでもない。端的に言うと、自由はめんどくさい。

ゲームにおける自由度を一言で表現するならば、「何をしてもいい」となる。マイクラではゾンビの襲撃に立ち向かってもいいし、地下に潜って鉱石を掘り当ててもいいし、畑で麦を育てたっていい。

しかし、それは言い換えれば「何をするか自分で考えて決めなければならない」のである。そして、それは非常にメンドクサイ。ここが、自由度の高いゲームを楽しむ難しさであると思う。

よくビジネスの世界で話される、「30種類くらいのジャムを売りに出したら、お客は集まるけど売り上げはよくない。ジャムの種類が少ない時の方が売り上げがいい。多くの選択肢から選ぶというのはお客にとってストレスなのだ※」みたいな話があるが、言いたいことはあれに近い。できることが多すぎると、どれをやったらいいか分からなくなるし、どれをやるか選ぶのが面倒なのだ。

しかし、この自由さをうまく乗りこなせれば、自由度が高いゲームは人生を賭けて楽しむに値する名作と化す。

 

シーナ・アイエンガーさんの『選択の科学』というところが出典らしいです

 

自由度が高いゲームの「楽しみ方」

では、自由度が高いゲームを心から楽しむためにはどうすればいいのだろうか?

まだ自分もこの問題に完璧な答えを用意できているとはいえないが、これまた自由度が高いゲームの代名詞である「あつまれ どうぶつの森」のプレイ経験を通じてわかってきたことを書いてみたい。例えもほとんどどうぶつの森で統一する。

①まずは一通り色々やってみる

いくら自由度が高いゲームでも、できることは有限である。まずは目についた色々なことを試してみよう。住民に話しかけたりプレゼントをあげたりする、虫や魚を採ってみる、服を買って着替えてみる、いい家具を買って家に飾ってみる、とたけけのCDを買ってプレイヤーで再生してみる、などなど…

 

②自分の心に響いたものを羅列してみる

それだけたくさんのことをやれば、何か1つくらいは楽しいとか、もっと深めてみたいとか思うものが出てくるだろう。それらが「ゲームの目的候補」だ。自分の場合それは住民と仲良くなることと生物採集ととたけけのCD集めだった。他にも、マイデザインで凝ったものを作ったりインテリアを統一したテーマで揃えたりするのが楽しい人も多いと思う。ちなみに僕のお母さんは花の交配に楽しみを見出しているようだ。

 

③それは終わりのあるテーマか?もしくは創造的なテーマか?

これはどちらかというとオマケ的なものだが、自由度の高いゲームでやり込んで楽しいのは、だいたい「時間はかかるが終わりがあるもの」「クリエイティブなもの」に分けられるような気がする。「時間はかかるが終わりがあるもの」には、コレクション要素やサブストーリーなどが入る。どうぶつの森でいえば、生物や美術品を博物館に寄贈したり、とたけけの曲を集めたり、住民の写真をもらうために仲良くなったりする事がこれに当たる。

一方、「クリエイティブなもの」もハマる人はとことんハマる。例えば、現実世界の家具のカタログのように美しい部屋をどうぶつの森の家具で表現したり、他作品のキャラクターの衣装をマイデザインで再現したりすること、また、かなり広義でいえばどうぶつの森に登場するものをテーマにイラスト・マンガ・音楽などの二次創作活動を行うこともこれに当たるだろう※。

ぶっちゃけここに関しては自分の主観的な実感であり、絶対こうでないといけないというものでは毛頭ないが、②で見出した「ゲームの目的候補」の中でこれら2つにあてはまるものがあれば、きっと楽しくやり込むことができると思う。

※二次創作について、任天堂はメチャクソ厳しいので手を出さない方がいい…と昔から言われてきたものだが、最近は任天堂自身がその辺のガイドラインを作っていたような気がする(まあこれは実況動画や紹介動画についてがメインだけど、ファンアートについては『問い合わせせんといてな、見てへんことにしといたるさかい』という感じのことをやんわりと言ってくれている。詳しくはggrks)

 

長くなってしまったが、つまるところ一番言いたいのは

「自分で目標や楽しみを見出せる人でないとこのタイプのゲームを最大限楽しむのは難しい」

ということだ。問題がないのなら、作っちゃえばいいのよ!(0.01%の人間にしかわからないパロディ)

初めから終わりまでが一直線になっているゲーム(例: スーパーマリオブラザーズ)は道順に進むだけで面白いことが次々とやってくるが、どうぶつの森やマインクラフトはそうはいかないらしい。なぜなら、そこにあるのは一直線ではなく放射状に広がった分かれ道なのだから。

マインクラフトについては、僕がこのことに気づくずっと前にプレイしたが途中から完全に1つのことを繰り返すだけの作業ゲーと化してしまい完全に目的を見出すことに失敗してしまった。

初めの方は木を切って、道具を作って、動物を倒して食べ物を手に入れて、家を建てて…とやることや目的がいっぱいあって楽しいんだけど、そこそこ「近代化」してきて狩猟採集生活から農耕を覚え、石器時代から鉄・ダイアモンド器時代に突入して、生活に不自由しなくなってくると本当にやることがないのだ。鉄はいっぱいあるし、麦は倉庫いっぱいにあるのでしばらく飢えることもなく、わざわざ冒険に出かける意味もない…

とりあえず暇なので外の畑に実った麦を全部ボタン1つで収穫し、種を植えなおし、とりあえず地面掘って石と鉄鉱石と石炭を手に入れて、とりあえず寝て、また明日も同じように…いや、これただのハイテクお百姓体験やん。剣と魔法とツルハシの世界やないやん。と、なってしまった。

だからマインクラフトを飽きずに延々と遊び続けられる人は本当にすごいと思う。こういう書き方だとキツい皮肉を言っているみたいだが、本当にすごい。あのゲームは自分で目標を設定できる人でないと本当に続かない。近代化した生活は退屈で仕方ないのだ。現実世界なら、そうやってできた「暇」こそが学問を進化させ、文学、哲学、建築学、宗教、科学などの議論が高度になっていく。でも、ゲームはそもそも暇つぶしなのだ。暇つぶしで暇になってしまっては本末転倒なのだ。こういう時、暇を暇とも思わず新しいことに挑戦していく人が羨ましい。本人は面白いことがあるからそれをやっているだけなんだろうけど、自分のように怠け者でのほほんとしている人間にはなかなか真似のできない芸当なのである。

しかし、どうぶつの森を始めたことで自分にとっての「自由度が高いゲームの楽しみ方」をだんだん理解してきた。はじめと終わりが明確に決まっているゲームと違って、あまりがっつく必要はない。むしろこういうのは毎日ちょっとずつチビチビとやるのがオツなものなのだとわかった。毎日住民のみんなに話しかけて、ラッピングした果物をあげて(家具をプレゼントするとせっかくのオリジナルの部屋レイアウトが崩れるから…)かわいいグルミンたんが自分のニックネームを考えてくれたことに頬を緩ませ、虫採ってホタテ採って役場のタヌポートでとたけけの曲を買って、あとはやりたいことがあればやって、なければ終わってしまう。それくらいでいいのだ。それがこのゲームの掲げる「スローライフ」というものの本質だと学んだ。

 

最近の任天堂ゲーは自由度の高さと低さを両立していてスゲー

ここからは任天堂信者のただのマンセーです。あんまり読む価値はないかも。

最近は自由度の高いゲームが増えている。技術力が飛躍的に向上したので、そういうゲームを作りやすくなったからだ。任天堂のゲームにだってその流れが来ている。

筆頭に挙げるべきは、やはり「ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド」だろう。ゼルダの当たり前を見直すというテーマで、今までのシリーズとは雰囲気の違うゲームとなった。100年の眠りから覚めたところから物語が始まり、厄災ガノンを打ち倒す前に「生きる」ことを学ぶ必要がある。武器を拾ったり、魚や動物を捕まえて食材にしたり、料理をしたり、山を登ったり、買い物をしたり…なんでもできてしまうのでガノンを倒しに行くまでに満足してしまう人も多いと思う。

スーパーマリオオデッセイ」も、マリオシリーズの中ではかなりの自由度を誇る。マリオ自体、ゲームのつくりからして一直線形式の「自由度が低い」タイプのゲームが多く、これも他のゲームよりかは自由度が低めなのだが、他のシリーズでいうパワースターやシャインにあたる「パワームーン」がマップ中に散りばめられており、基本的にどの順番で取得してもいいし、取らずにコインで買ってしまうことだってできる。マリオシリーズでは珍しい着せ替えの概念が登場したり、スナップショットモードでスクリーンショットをきれいな写真のように撮影することもできるようになっており、現代の価値観を反映したつくりになっている。

「あつまれ どうぶつの森」の自由度の高さについては、もうここで改めて言う必要もないだろう。昔から変わらないと思いきや色々変えつつ、今もこの荒んだ社会でファストライフを送る愚かなホモ・サピエンススローライフの良さを説き続けている。

もちろんここで紹介していない「スプラトゥーン2」や「星のカービィ スターアライズ」などの例外はあるが、自由度が高く作中でなんでもできてしまう仕様は任天堂の大物コンテンツでも取り入れられつつある。ここで言いたい任天堂の強いところは、1つの作品の中に自由度の高さと低さと兼ね備えていることだ。

例えば、「あつまれ どうぶつの森」では、いままでのシリーズにはなかった「マイル」の概念を導入している。これは実績モードみたいなヤツで、何かを達成したら通知が入り、「マイル」というポイントのようなものが手に入るというものだ。マイルは役場で様々なアイテムと交換してもらえる。通算○○回虫を捕まえた、というマイルの他に、今日5回虫を捕まえた、というデイリーミッション的なものもある。何でもできるゲームにあえて「やるべきこと」を加えることで、ゲーム内での目的を作っているのだ。

これはゼルダにもいえることで、自由な世界の中でも出会った人の頼みを聞いたり、ところどころにミニゲームのようなチャレンジを仕込むことでよいスパイスになっている。

最近は意欲的なインディーズゲームやスマホゲーが市場を席巻しつつあるが、なんだかんだ言ってやっぱ長いことゲーム作ってきたゲーム屋はいろいろと「わかってる」ように思う(ただの任豚並感)。

 

おわりに

 建設的に意見だけを述べていくつもりが、8割が思い出語りでできたような文章になってしまった。試験1日前になにやってんだろう、僕…

あと、これ書いてる途中にWikipediaが言いたいことだいたい言ってくれてることに気づいてちょっと悲しくなりました。でも文章書くのがたのしかったからヨシ!

自由度 (ゲーム) - Wikipedia