(元)限界高専生の限界日記

元留年生。某化学メーカー工場勤務。

自信がない?しょーがねーだろ留年生なんだから

先日受けたお祈りメールの傷がまだ癒えず、むしろだんだん化膿しているように思う。

「能力面は問題ないのですが…」

高専の就職率は非常によく、どれだけ不景気でも必ず内定はもらえる」という言葉を、私は何度も何度も在学中に聞いていた。正直、初めはそんなことどうでもよかった。理科が好きだ、実験が好きだ、だから高専で化学をやる。入学の動機はそれだけだった。

将来は専門職としてどこどこでどんな偉業を…とか、どんなキャリアを積んで、将来的にはどんな役職に…とか、そんなことは1ミリも考えていなかった。普通みんなそういうことを考えながら入学するのかな。

就職率についてどうでもよかったのは事実だが、自分の中ではどこかその考えがじわじわと体にしみ込んでいたようだ。働きたくないけどクソめんどくさい就活をするのはもっといやだ。高専ではめんどくさい就活をやらなくていい、と。

なので早々出鼻をくじかれてお祈りを受けたときは動揺した。やっとこのクソイベから解放されると思っていたのに…初めは「あっそ、どうせ期待してなかったし、別に企業は星の数ほどあるし…」と強がってみたりしたが、やはり努力がなかったことになるのにはむなしさを感じざるを得なかった。

お祈りメールには、「能力面は問題ないのですが、自信のなさが感じられ少し不安に思いました(要約)」というお祈りの理由が記されていた。先生はそれを貴重なメッセージだと伝えた。

確かに、ただぶっきらぼうにお前は落ちたと伝えてくるよりかは理由がついていた方が丁寧だし、次にもつながる。でも、「自信がない」なんてどうやったら克服できるんだ?そもそも、それは克服するべき事柄なのか?

留年生は電気自信の夢を見るか?

そもそも、自信というものは持とうと思って持つものではなく、何かに挑戦し成功体験を積むことの副産物として得られていくものだ。テストに合格した。すごいことを成し遂げた。人に認められた。オレは成功できる、自信にあふれているぞ。自信ってそういうことなのではないだろうか。

逆に言えば、失敗をすればするほど、また、その失敗の規模が大きければ大きいほど、自信というものは失われていく。勝負に負けた、彼女に振られた、ウンチを漏らした、ああオレはダメな人間だ、何もする価値がない。そうやって、自信を失うほど何かに挑戦する意欲が削がれていく。例えば、留年なんて最大級の失敗体験といえるだろう。

いくら高専生の留年率が高いとはいえ、留年というのは学生にとって屈辱的なものだ。今まで同じクラスにいた人と離れ、新しく入った先では初め腫物を触るように扱われ、𠮟咤激励する人はそんなにいないけど代わりに同情され。高専生なんて同年代の高校生などに対して専門的な知識と技術を持っていることくらいでしかマウントを取れないような哀れな生き物なのに、その知識がないよという烙印を押されたら何が残るというんだ。

もちろん、留年したら人生が終わるわけではない。望むと望まざるとにかかわらず、苦しい生は続く。留年生はそこで今までの自分の問題点に気づき、解決しようと試みる。また、大量に生まれた空き時間から新しい世界を見出す。これが理想的な留年生のサクセスストーリーである。自分もこの枠に入っていないことはないが、なんとか人並みに「やっていき」ができているという実感とともに、心の底には冷めた感情が常に存在する。何をしたって留年した事実がなくなるわけではない、どうせ自分は人より劣っている人間なのだから努力することに意味などない、という諦めのような感情が。こんなんで自信を持てという方が酷である。

基本的におとなしい性格で、少数の親しい人の前以外では口数が少なく、発言する前に考え込んでしまうような人間である。こんなのを好き好んで採りたがるような変な会社はそうそうないので、面接ではできるだけ前向きで積極性があり行動力のある人間を演じるよう試みた。自分ではなかなかうまくいってたんじゃないかなぁと思ったのだが、人事のプロは私の本質をいとも簡単に見抜いていたようだ。いくら表層を取り繕っていても、自信のなさは言葉の端々に現れてしまうようだ。

私の自信のなさはそうなろうと思ってなったわけではなく、生きていたら勝手に失敗しまくっていて自然にそうなっていただけなのだ。そこを否定されてしまうと、もうどうしていいか分からない。内定のために自分の性格を無理のない範囲で偽っていた自分が言っていい事ではないけれど。

しょーがねーだろ留年生なんだから

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こんな自分で自分の可能性を狭めるようなことは言いたくない。でも、できることとできないことってもんがある。祈られた留年生にただ「自信を持て」というのは、うつ病に苦しむ人に「はやく元気になってね」と言うようなもので何も好転せず焦燥感を増すだけだ。(鬱になったことないのでわからんけど)

むしろ、そこで「うーん、今までの自分に反省だ。さあ自信を持つぞ!」となったならば、手に入れたものは自信ではなく妄信、蛮勇の類だろう。

…そういうことなのかもしれない。どういうことかというと、世の人々が「自信」という言葉を使う時、それは成功体験に基づいた「自分なら成功する」という感情ではなく「知らんけどなんかいける気がする」という根拠のない蛮勇のことを指す場合があるのではないか。

つまり、「自信のなさを感じられる」というのは「失敗体験に執着しすぎ」であり、「自信を持て」というのは「何も考えるな、当たって砕けろ」と言い換えられるわけである。

一見馬鹿らしく思えるが、たぶんそういうことなのだ。私がするべきなのは、留年という過去の失敗体験を超えるほど強烈な成功体験を経験することではなく、頭を空っぽにしてオレはできる、オレはできる、オレはできる…と根拠のない妄想で頭をいっぱいにすることなのかもしれない。長期的に見ればそんな妄想はむなしい人生を生むだけかもしれないが、少なくとも短期的に見ればそっちの方が楽だ。

どうせ面接官だってそんなに深く考えてこのメールを送ったわけではない気がする(←失礼)。なんか来たけど覇気がないし三色チーズ牛丼オタクっぽいしオドオドしてるから落としちゃえ、くらいのノリだろう(←大変失礼)。

たった1社のたった1文にここまで振り回される私さんサイドにも問題がある。もし自信という名の妄信があればきっとそうはならず、またすぐ前を向いて歩き出せたことだろう。こうやってウジウジと1文についての解釈を書き殴っていけばいくほど、自信のなさを露呈しているようなものだ。

やはり自分の考えを一度噛み砕いて言語化し、文章として書き表すのは大事だことだとあらためて気づく。自分がどう思っているのかを他人の視点のように確認することができるし、主観的には何の問題もないように思えたことも俯瞰してみると結構変なところが多かったりする。Twitterのギスギスした空気から逃げるようにブログを書き始めたが、なかなか楽しいと分かったのでしばらくこの習慣を続けていきたいと思っている。遠隔授業が終わり普通に登下校するようになったときにブログを更新できるほどのMPが余っていればだけど…