そして科学少年は限界高専生となり、やがて労働者となった
今年度の授業が全て完了し、あとは卒業を待つのみとなった*1。
引っ越し準備や卒研の引継ぎ作業などもあり、そこまで暇を持て余しているわけではないが、インターネットの端っこに存在するようなしないような零細チラシ裏ブログに卒業文集と呼ぶには退廃的すぎる個人的な懺悔を書き散らすほどには暇があるので、卒業文集と呼ぶには退廃的すぎる個人的な懺悔を書き散らしたいと思う。
高専に入学したことが本当に正しい選択であったかどうか、正直なところよく分からない。
なぜなら、高校生としての人生を送ったことがないからだ。さらに言うと、高校生の友人もほぼいないので人の体験談から想像することも叶わない。
ただ、高専生でたまに言ってるのを見かける「俺がモテない/青春を謳歌していない/オタクを抜け出せないのはどう考えても高専が悪い」という風には思わない。たぶん自分は高専に行こうが高校に行こうが、どのような世界線であれ今のようなオタクくんだっただろうと思う。
(余談だが、世間一般の高専のイメージにありがちな「クラスメイトはみんなおとなしいオタク」というのは、少なくとも自分の観測上ではあまり正しいとはいえない。普通に髪色を変えたり、オシャレを楽しんだり、恋愛をしたりする、所謂「あちら側」も多い。オタク的な人への風当たりは強くなく、オタクにとって生きやすい世界であることは事実だが。)
まあ、いろいろ実験をしたり、レポートを書いたり、留年したりしてみた結論として、なんだかんだ悪い選択ではなかったとは思う。
元はといえば、実験をたくさんしたいがために高専に来たのだ。目的は十分に達成された。ただ、中学生の自分には理科の授業と科学(化学の知識に限らず、その知識を用いてさらに深い学びを得ること)の違いが分かっていなかったというだけに過ぎない。
科学に興味を持ち始めたのはたぶん小学生の中ほどだったと思う。テレビで米村でんじろう氏がサイエンスショーをやったり、地元の科学館にある様々な展示物に目を光らせていた記憶がある。
小学生が興味を持ったものに注ぐエネルギーというのは凄まじく、図書館に本あればこもって読みふけり(学研のひみつシリーズはもはや聖書)、大学にイベントあれば出向いて話を聞き(たのしい実験ショーはいいが、大学の先生の話は小学生には難解すぎた)人生を送っていた。何か功績を上げていれば、間違いなく伝記にのるエピソードだ。
そんなさなか、高専の物質工学科の存在を知った自分がそこに憧れないはずがなかった。小学校や中学校では月1回あるかないかレベルの実験が毎週できて、高校生の年齢から大学レベルのことが学べて、しかも将来は化学の分野で活躍する一流のエンジニアに…なんて宣伝文句につられて、高専入学のための勉強を始めた。中3の夏から。
学校にもよると思うが、自分の所属する高専は入試が複数種類ある。ふつうの試験の学力入試、成績上位者のみ受けられる校長推薦入試、そして、実技試験、小論文、面接より評価する体験入試だ。
成績は数学よわよわマンだったので推薦入試は受けられず、まず体験入試を受けた。
実技試験と聞いていたので、きっと実験装置の取り扱いを見るのだろうと思い、理科の先生の助けを受けて練習を何度も行った。小論文と面接は塾で添削を受けた。
もう今の僕に死角はない。かかってこい、高専。そう思っていた。口下手で、人の目を見て話せなくて、赤の他人と議論なんてしようものならストレスで寝込むような自分でも、手を動かす実技ならできる、と。
実技試験の内容はチームでのコミュニケーションだった。
終わったな、と思った。知らない人と意思疎通するのも嫌なのに、テーブルに置かれた問題をそこに同居する4人と共に解決せよ、しかも回答を紙にまとめて発表しろ、と。
案の定自分は下を向き続け、たまにボソボソと同意の旨を表明し、回答の発表もまともにやらなかった。その時は過度に緊張していて覚えていないのだけど、同席した受験生のうち一部は受かっていたそうだ。
小論文と面接は正直覚えていない。
ただ、結果としては、不合格だった。まあそうなるのはわかる。実技試験であんなことをわざわざやったのは、「チームのなかで役割分担を行い、自分に割り当てられた仕事をこなす」という基本的な組織の働きができる人間が求められているからだろう。少なくとも、社会で活躍する技術者を養成する学校が、何も言わない、何もしない、感じもよくない根暗なインターネット中毒の人間を合格させる道理はない。
なので、学力で殴ることにした。いつだって、力こそパワーなのだ。
落ちてから猛勉強し、学力試験で合格した。後から聞いたが、体験で落ちて学力で受かるのは珍しいそうだ。あれだけ勉強したのは、後にも先にもこの一回のみだった。
かくして、自分は高専という地獄の門をくぐることとなった。「汝、一切の望みを捨てよ」とは書いていなかったので法律違反だと思う。
ここで、1年から今までの経験を全部洗いざらい書くと途中でダルくなって下書き記事のまま放置されることになるので、あえて書かない。
高専生活でのいろいろな経験を通じ、自分が学んだことを以下に示す。とはいっても、化学知識のほうではない。もっと抽象的で、自分が覚えておきたいことだ。
・努力ではどうにもならないことがある
最初の項目がこれというのもどうかと思うが、実際これは一番痛感した。努力してもコミュ力おばけになれない人はなれないし、留年もする。
自堕落なように聞こえるし、実際そうだが、努力で全て解決すると考える方がずっと危険だと思う。それは心と体を一気に破滅へと導きかねない。
努力で全てが解決するというのは、こじらせると「問題が解決しないのは自分の努力が足りないからだ、全部自分のせいだ」という考えに変換される。本当はただタイミングが悪かったり、根本的なやり方や考え方などに問題があったりするだけなのに、それをすべて自分のせいにしてしまう。壁が高くなればなるほど努力量は増えるが、その一方で望ましい結果があまり得られないので、やがて疲弊し全てどうでもよくなってくる。
そういう時は、一度立ち止まって考えてみるのがいい。本当にこれは自分の努力で解決できる問題か?もしそうでなければ、根本的な方法を見直すべきか?と。努力や工夫でどうにもならないことは、むしろ深く悩むのをあきらめた方がよい時もある。本当に努力を注ぐべき対象に集中砲火をするために。
ちょっとアドラー心理学に近しいものがあるかもしれない。自分の課題ではないことに首を突っ込んでいられるほど、人のエネルギーは有り余っていない。
・楽するための努力を惜しまない
禅問答ではない。人は生きていると様々なタスクに直面する。それらはだいたい非常に面倒くさい。そういう時、面倒くさいタスクをいかに楽にできるか?ということを考える。同じ結果が得られるのなら楽な方法を使わない手はない。本当に努力を注ぐべきなのは、その楽に解決する方法を模索することだ。例えば、自炊するとき料理の手間を省くために大鍋で数日分の料理を一気に作ったり、いちいち家事のスケジュールを考える必要がないように曜日を決めておく・・・みたいな話だ。
「若いころの苦労は買ってでもすべきだ」という言葉はこの考えと反しているようだが、案外そうでもない。なぜなら、人は老化が進むごとに学習能力が低下していき、新しいことを学び記憶するのが大変になるからだ。
・寝ろ
ここで突然具体的なアドバイスが来た。睡眠は本当に重要だ。睡眠を削りまくるとまず体にガタがきて、つぎに心が荒み始める。そうすると作業効率が落ち、更に睡眠を削る必要性が出てくる。さらに心身が疲弊し、また作業効率が落ち、そして終わる。
終わるとは具体的にどういうことかというと、留年するということである。
なるべく日付が変わるまでには寝るべきだし、睡眠時間としては7時間以上は寝た方がいい(本当は8時間寝たいけど、そこまで寝ると逆に次の日の夜眠れなくなる)
睡眠さえ守っていれば、だいたい人生はどうにかなる。それが高専生活後半で学んだことだ。
あと、睡眠をとることそのものだけでなくいい睡眠をとるために普段の行動を気を付けるのも結構効果がある。たとえば、自分はカフェインが効きやすい体質なので日が沈んだらカフェインを摂らないとか、夜十時を超えたら液晶画面を見ないようにするとか(これはもはや形骸化しているけど)、GABAのサプリを飲むとかをやっている。
・コンサータを飲め
また具体的&対象が限られすぎているアドバイスだが、これは本当にそう。
自分はADHD(診断済み)で、コンサータ36mgを毎日飲んでいる。薬効を文字で表現するのは難しいが、無理やり例えるならば「しっかり眠った土曜の朝の調子が毎日続く」ような感じだ。自分あやしいな…と思ったならば行った方がいい。
毎回ちゃんと文章の構成を練らないのでぐちゃぐちゃの脳内をそのまま書き上げたような文章だが、ここでいったん切っておく。
*1:執筆開始時
気が付けば驚くほど活字を読んでいない人生だった
ここ1カ月くらい、ずっと頭の中から卒研のことが離れない。
実験のスケジュールを中心にして生活を組んで、今日は何時から何時までこの実験をやって、次は器具を洗って*1その後はエクセルでグラフを整えて先生に報告して…と脳内で思考をぐるぐると巡らせるのは意外と消耗する。
コロナのせいで研究のスタートが遅れたから焦っているというのもあるんだけど、もう遅れてしまったものは仕方がない。ただ、卒研というものがこれほどにも高専生活におけるウェイトを占めるものなのかと驚いている。
自分は留年生なので、一度同じクラスに所属していた人間を送り出している。それと同時に、彼らが卒研で苦しむ様子を、他人事ほど遠くなく、当事者ほど近くないくらいの中途半端な距離で眺めてきた。クラブ参加率がガクッと落ちたり、まるで研究室に住んでいるかのような生活*2をしたりしているのを見てきたはずなのに、それがどれほど大変なことなのかを理解していなかった。本当に人生の中心を研究に乗っ取られていく。それが悪い事と言うつもりは全くないが、どちらかというと勉学にはあまり励まなかった方の自分でさえそうなってしまったのだから驚きだ。
5年の後期は単位数の関係からかなりの数の授業を切ることができる。なので、1限に入っている教科を中心に、必修科目ではない選択科目はことごとく切ってきた。*3受ける授業数が1週間に4教科とかになり、かなり人生に余裕ができるなと思っていたのだが、読みが甘かった。驚くほどぴったりと、卒研がその空いた枠にぬるりと侵入してくるのだ。
結局、朝はゆっくり起きられるが帰宅はいつも遅くなってしまう。サンプルを大量にため込んで原子吸光分析をやる時など特にそうだ。
今まで自分は、空いた時間などで活字の本を読むことが多かった。確か3年生2回目*4の時、どこにも居場所がなくてとりあえず図書館に転がり込んだことが始まりだったように思う。基本的にノンフィクションを選ぶことが多く、よくわからない新書とか哲学入門とか海外旅行記とかを好んで読んでいた。小説などはあまり興味が持てず、ライトノベルに手を出したのもここ最近の話だ。このすばのことです。
だが、ここ1カ月くらいはずっとまともにまとまった量の活字を追っていない気がする。当たり前の事実かもしれないが、活字を追うのにはMPが要るんだよな…
ただし、ツイッターのイン率には変化がない。つまるところ、いつも変わらずほぼ毎日居座り続けているというわけだ。ツイ廃の皆様ならご存じの通り、ツイッターはTikTokやインスタグラムなどのSNSに比べて、文字によるコミュニケーションの側面が大きい。活字を追うMPが無いというのに文字情報でいっぱいのTLの監視はできるってそれはおかしくないか?
思うに、本当にMPを消費するのは「文字を目で見てその意味を理解すること」ではなく、「文字を目で見てその意味を理解したうえで、その文章が表している情景や文脈を連ねて思い浮かべること」ということなんだろうか。
ツイートは基本的に140文字しか書けないので、その140文字(もしくは数個に連なったスレッド)の中で文脈が完結する。次のツイートでは、まったく別の人が、まったく別の文脈の話をしている。1つ1つは基本的に大きな情報量を持たないので、頭の中で大仰な情景を思い浮かべる必要がない。これが本などになると、濃厚にまとまった良い文ほどしっかりとした情報量を持つのでしっかりと文章の内容について頭の中で思い浮かべる必要が出てくる。このプロセスが一番疲れるのだろう。
本が読めなくなってしまったことに少し焦りも感じるが、疲れた時に無理に頭を働かせるのはかえって悪手といえよう。そういう時は大体文章の意味は掴めても文脈や情景などをうまく読み取れない、所謂「目が滑った」状態になる。おお、点と点が線でつながってきたぞ。そういうときは、おとなしく文脈とか情景とかをいちいち絵にしてくれていて考える手間を省いてくれている漫画を読んで過ごそう。間違ってもツイッターに張り付いてひたすらMPを浪費し続けるのだけは避けたい。
ここまで1900文字くらいで結局何が言いたかったかというと、最近kindleの11円セールで買ったミスター味っ子面白いですはい。頭がしんどいのでもうこればっか読んでいます。一緒に買ったこれまた11円のまじかる☆タルるートくんも手を付けたい。
試験1日目終了。疲れた
教科書・ノート持ち込み可宣言を出された教科の方が絶望感がすごい。
帰って寝たいが明日も試験は続くのでそうもいかない。
今年上半期の試験はいつもコンディションが悪いような気がする。1回目は就活真っただ中だったし、今回は卒業研究の中間発表間近で先生に投げつけた資料が赤ペンまみれだし。
だいいち、人間そんなにいろいろなことを並行してできるもんじゃねえんですよ。テスト勉強するときはそっちに全力を注ぎたいし、大事な資料を作ってるときはそっちに尽力したい。両方一気に…というのはできんとですよ。器用な人間ならたぶんできるんだけど、僕が器用な人間ならこうやって研究室のPCでネットサーフィンがてらブログを書き散らしたりなんかしない。
もっと人間をうまくやりたい人生だった…
ゲームに自由度を求めるのは間違っているだろうか
今日、いつものように廃人のような目でツイッターを眺めていると、このようなツイートに出会った。
【ゲーム日記】
— 鼻から挽肉 (@ha_na_ka_ra200) 2020年9月12日
唐突に燃え尽きるマイクラ愛 pic.twitter.com/ifpoc1I5vn
様々な実況者が取り扱い、いまだに人気の絶えないゲーム「Minecraft」についてのマンガだ。建築、MOD、天空トラップ…できることは無限大だが、飽きは突然やってくる。
僕はこのツイートの最後の1文「自由度が高いゲームは突然飽きる」ということを何度も実際に体感している。しかし、自由度が高いゲームは長く遊ぶに値しない、くだらないゲームなのかというと、決してそんな風には思っていない。これはゲームそのものの問題ではなく、プレイヤーがどうゲームに向き合うかという部分が問題なのだ。
僕自身、自由度が高いゲームの「楽しみ方」がずっとわからずいたのだが、最近になってやっとそれをつかんできた気がする。
近年のゲームの評価基準の1つとなっている「自由度」について僕が思うところや、どうすれば自由度が高いゲームを最大限に楽しめるか、経験して分かってきたことを考えの整理がてら書き散らしてみたいと思う。
- まとめ
- 「自由度」とは?
- ゲームの面白さは自由度に依存する?
- 「なんでもできる」≒「何をしていいかわからない」
- 自由度が高いゲームの「楽しみ方」
- 最近の任天堂ゲーは自由度の高さと低さを両立していてスゲー
- おわりに
まとめ
思いのほか長くなってしまったので、まず言いたい内容をざっくりまとめておく。忙しい人はここを見ればだいたいわかります。
- 「自由度」はゲームの評価基準の1つではあるが、これだけがゲームの面白さを決めるということは決してあり得ない。
- 「何でもできるゲーム」というのは、言い換えれば「何をするべきか自分で考えて決めなければいけないゲーム」であり、楽しむには少しコツがいる。
- 自由度が高いゲームを最大限に楽しむには、何を楽しむのか、何を達成することを目標にするのかを自分で見つけ出すという過程を踏むべきだ。また、その目標はコレクション要素などの「時間はかかるが終わりがあるもの」か、建築などの「創造的なもの」であると好ましいのではないだろうか。
「自由度」とは?
まず、ここでいう「自由度」とは何か今一度問うておこうと思う。
一口に自由度といってもいろいろな見方があるので、ここではいったん①「プレイヤーがゲーム内でできることの幅広さ」と②「ゲームで与えられた目的の明確さと、これを達成することの重要さ」という点から自由度を評価してみる。
例としてスーパーマリオブラザーズを挙げてみよう。
①マリオは「前後に移動する」「ジャンプする」「しゃがむ」「ファイアボールを投げる」「土管に入る」「コインをとる」「敵を踏みつける」「ブロックを破壊する」などの行動をとることができる。しかし、「奥/手前(つまり背景の山など)に移動する」「来た道を戻る」「ツナギから水着に着替える」「ピーチ姫救出をあきらめて配管工として余生を過ごす」「クッパ軍団に寝返る」といったことはできない。前者の「できること」の数が多いほど、また、後者の「できないこと」の数が少ないほど、「自由度が高いゲーム」といわれる。
②スーパーマリオブラザーズの目的は、「コースを踏破してクッパを打倒し、ピーチ姫を助け出す」ことである。単純明快だ。この目的を達成するための行動をとらないとただ1-1で立ち尽くすだけで1日が終わり、スーパーマリオブラザーズをやる意味がない。ゲームの目的が明確であるほど、また、その目的の達成が重要であるほど、自由度は低いといわれる。
ゲームの面白さは自由度に依存する?
先ほどの例でみると、スーパーマリオブラザーズはかなり自由度が低いゲームに見える。だって、GTAと違ってマリオにアサルトライフルやロケットランチャーを持たせて戦うこともできないし、マイクラと違って次に行く場所が決まっていて、そこに行かないと死んでしまうし。
でも、1985年から2020年までのどこかを生きたゲーマーの中で、スーパーマリオブラザーズのことを面白くないという人間はどれだけいるだろう?自由度だけでゲームの面白さが決まるならば、マリオが任天堂の顔になることもなかっただろう。
自由度の高さをゲームの評価基準の1つに置くことに異論は全くないが、自由度の低いゲームが面白いはずもないと切り捨てることには人生を賭けてでも反対したい。
逆に、自由度が高いゲームは突然すぐ飽きるのでつまらない、というのもあまり賛同したいと思わない。前までは僕もそう思っていたが、それぞれにはそれぞれの楽しみ方というのがあり、そこに上下はないというのが現時点での自分の意見だ。
「なんでもできる」≒「何をしていいかわからない」
さて、本題に戻ろう。自由度が高いゲームについて、僕は最近まで楽しみ方がよく分からないままでいた。なぜって、自由というのは自分には難しいからだ。
弟(小学生)に、「ギャングスターベガス」という、スマホで遊べるGTAみたいなゲームを紹介した。僕がそれをどこで知ったかは忘れたが、とにかく弟がGTAの実況を好きなのできっと気に入るだろうと思って。僕はGTAのことはよく知らないが、あのゲームは治安の悪い街のギャング的なおっさんになって、略奪あり殺人あり犯罪あり、なんでもすることができるゲームらしい。まさに自由の権化みたいなゲームだというイメージ。
弟はそれを大層気に入ったようで、僕に勧めてきた。遊んでみたけれど、楽しみ方があまりよくわからなかった。暴力反対!野蛮なのはよくないとおもいます!みたいなことを思っていたわけではなく、別に車奪ったり人殺さなくてもゲームは進むし、やる必要なくねえか…めんどいし…と思いながら交通ルールを守って道を渡り、ストーリーを進めたりしていた。割と早くアンインストールした。
自由というのは何よりも素晴らしくて称賛されるべき、甘美な言葉であるかのように扱われることがあるが、実際はそうでもない。端的に言うと、自由はめんどくさい。
ゲームにおける自由度を一言で表現するならば、「何をしてもいい」となる。マイクラではゾンビの襲撃に立ち向かってもいいし、地下に潜って鉱石を掘り当ててもいいし、畑で麦を育てたっていい。
しかし、それは言い換えれば「何をするか自分で考えて決めなければならない」のである。そして、それは非常にメンドクサイ。ここが、自由度の高いゲームを楽しむ難しさであると思う。
よくビジネスの世界で話される、「30種類くらいのジャムを売りに出したら、お客は集まるけど売り上げはよくない。ジャムの種類が少ない時の方が売り上げがいい。多くの選択肢から選ぶというのはお客にとってストレスなのだ※」みたいな話があるが、言いたいことはあれに近い。できることが多すぎると、どれをやったらいいか分からなくなるし、どれをやるか選ぶのが面倒なのだ。
しかし、この自由さをうまく乗りこなせれば、自由度が高いゲームは人生を賭けて楽しむに値する名作と化す。
※シーナ・アイエンガーさんの『選択の科学』というところが出典らしいです
自由度が高いゲームの「楽しみ方」
では、自由度が高いゲームを心から楽しむためにはどうすればいいのだろうか?
まだ自分もこの問題に完璧な答えを用意できているとはいえないが、これまた自由度が高いゲームの代名詞である「あつまれ どうぶつの森」のプレイ経験を通じてわかってきたことを書いてみたい。例えもほとんどどうぶつの森で統一する。
①まずは一通り色々やってみる
いくら自由度が高いゲームでも、できることは有限である。まずは目についた色々なことを試してみよう。住民に話しかけたりプレゼントをあげたりする、虫や魚を採ってみる、服を買って着替えてみる、いい家具を買って家に飾ってみる、とたけけのCDを買ってプレイヤーで再生してみる、などなど…
②自分の心に響いたものを羅列してみる
それだけたくさんのことをやれば、何か1つくらいは楽しいとか、もっと深めてみたいとか思うものが出てくるだろう。それらが「ゲームの目的候補」だ。自分の場合それは住民と仲良くなることと生物採集ととたけけのCD集めだった。他にも、マイデザインで凝ったものを作ったりインテリアを統一したテーマで揃えたりするのが楽しい人も多いと思う。ちなみに僕のお母さんは花の交配に楽しみを見出しているようだ。
③それは終わりのあるテーマか?もしくは創造的なテーマか?
これはどちらかというとオマケ的なものだが、自由度の高いゲームでやり込んで楽しいのは、だいたい「時間はかかるが終わりがあるもの」「クリエイティブなもの」に分けられるような気がする。「時間はかかるが終わりがあるもの」には、コレクション要素やサブストーリーなどが入る。どうぶつの森でいえば、生物や美術品を博物館に寄贈したり、とたけけの曲を集めたり、住民の写真をもらうために仲良くなったりする事がこれに当たる。
一方、「クリエイティブなもの」もハマる人はとことんハマる。例えば、現実世界の家具のカタログのように美しい部屋をどうぶつの森の家具で表現したり、他作品のキャラクターの衣装をマイデザインで再現したりすること、また、かなり広義でいえばどうぶつの森に登場するものをテーマにイラスト・マンガ・音楽などの二次創作活動を行うこともこれに当たるだろう※。
ぶっちゃけここに関しては自分の主観的な実感であり、絶対こうでないといけないというものでは毛頭ないが、②で見出した「ゲームの目的候補」の中でこれら2つにあてはまるものがあれば、きっと楽しくやり込むことができると思う。
※二次創作について、任天堂はメチャクソ厳しいので手を出さない方がいい…と昔から言われてきたものだが、最近は任天堂自身がその辺のガイドラインを作っていたような気がする(まあこれは実況動画や紹介動画についてがメインだけど、ファンアートについては『問い合わせせんといてな、見てへんことにしといたるさかい』という感じのことをやんわりと言ってくれている。詳しくはggrks)
長くなってしまったが、つまるところ一番言いたいのは
「自分で目標や楽しみを見出せる人でないとこのタイプのゲームを最大限楽しむのは難しい」
ということだ。問題がないのなら、作っちゃえばいいのよ!(0.01%の人間にしかわからないパロディ)
初めから終わりまでが一直線になっているゲーム(例: スーパーマリオブラザーズ)は道順に進むだけで面白いことが次々とやってくるが、どうぶつの森やマインクラフトはそうはいかないらしい。なぜなら、そこにあるのは一直線ではなく放射状に広がった分かれ道なのだから。
マインクラフトについては、僕がこのことに気づくずっと前にプレイしたが途中から完全に1つのことを繰り返すだけの作業ゲーと化してしまい完全に目的を見出すことに失敗してしまった。
初めの方は木を切って、道具を作って、動物を倒して食べ物を手に入れて、家を建てて…とやることや目的がいっぱいあって楽しいんだけど、そこそこ「近代化」してきて狩猟採集生活から農耕を覚え、石器時代から鉄・ダイアモンド器時代に突入して、生活に不自由しなくなってくると本当にやることがないのだ。鉄はいっぱいあるし、麦は倉庫いっぱいにあるのでしばらく飢えることもなく、わざわざ冒険に出かける意味もない…
とりあえず暇なので外の畑に実った麦を全部ボタン1つで収穫し、種を植えなおし、とりあえず地面掘って石と鉄鉱石と石炭を手に入れて、とりあえず寝て、また明日も同じように…いや、これただのハイテクお百姓体験やん。剣と魔法とツルハシの世界やないやん。と、なってしまった。
だからマインクラフトを飽きずに延々と遊び続けられる人は本当にすごいと思う。こういう書き方だとキツい皮肉を言っているみたいだが、本当にすごい。あのゲームは自分で目標を設定できる人でないと本当に続かない。近代化した生活は退屈で仕方ないのだ。現実世界なら、そうやってできた「暇」こそが学問を進化させ、文学、哲学、建築学、宗教、科学などの議論が高度になっていく。でも、ゲームはそもそも暇つぶしなのだ。暇つぶしで暇になってしまっては本末転倒なのだ。こういう時、暇を暇とも思わず新しいことに挑戦していく人が羨ましい。本人は面白いことがあるからそれをやっているだけなんだろうけど、自分のように怠け者でのほほんとしている人間にはなかなか真似のできない芸当なのである。
しかし、どうぶつの森を始めたことで自分にとっての「自由度が高いゲームの楽しみ方」をだんだん理解してきた。はじめと終わりが明確に決まっているゲームと違って、あまりがっつく必要はない。むしろこういうのは毎日ちょっとずつチビチビとやるのがオツなものなのだとわかった。毎日住民のみんなに話しかけて、ラッピングした果物をあげて(家具をプレゼントするとせっかくのオリジナルの部屋レイアウトが崩れるから…)かわいいグルミンたんが自分のニックネームを考えてくれたことに頬を緩ませ、虫採ってホタテ採って役場のタヌポートでとたけけの曲を買って、あとはやりたいことがあればやって、なければ終わってしまう。それくらいでいいのだ。それがこのゲームの掲げる「スローライフ」というものの本質だと学んだ。
最近の任天堂ゲーは自由度の高さと低さを両立していてスゲー
ここからは任天堂信者のただのマンセーです。あんまり読む価値はないかも。
最近は自由度の高いゲームが増えている。技術力が飛躍的に向上したので、そういうゲームを作りやすくなったからだ。任天堂のゲームにだってその流れが来ている。
筆頭に挙げるべきは、やはり「ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド」だろう。ゼルダの当たり前を見直すというテーマで、今までのシリーズとは雰囲気の違うゲームとなった。100年の眠りから覚めたところから物語が始まり、厄災ガノンを打ち倒す前に「生きる」ことを学ぶ必要がある。武器を拾ったり、魚や動物を捕まえて食材にしたり、料理をしたり、山を登ったり、買い物をしたり…なんでもできてしまうのでガノンを倒しに行くまでに満足してしまう人も多いと思う。
「スーパーマリオオデッセイ」も、マリオシリーズの中ではかなりの自由度を誇る。マリオ自体、ゲームのつくりからして一直線形式の「自由度が低い」タイプのゲームが多く、これも他のゲームよりかは自由度が低めなのだが、他のシリーズでいうパワースターやシャインにあたる「パワームーン」がマップ中に散りばめられており、基本的にどの順番で取得してもいいし、取らずにコインで買ってしまうことだってできる。マリオシリーズでは珍しい着せ替えの概念が登場したり、スナップショットモードでスクリーンショットをきれいな写真のように撮影することもできるようになっており、現代の価値観を反映したつくりになっている。
「あつまれ どうぶつの森」の自由度の高さについては、もうここで改めて言う必要もないだろう。昔から変わらないと思いきや色々変えつつ、今もこの荒んだ社会でファストライフを送る愚かなホモ・サピエンスにスローライフの良さを説き続けている。
もちろんここで紹介していない「スプラトゥーン2」や「星のカービィ スターアライズ」などの例外はあるが、自由度が高く作中でなんでもできてしまう仕様は任天堂の大物コンテンツでも取り入れられつつある。ここで言いたい任天堂の強いところは、1つの作品の中に自由度の高さと低さと兼ね備えていることだ。
例えば、「あつまれ どうぶつの森」では、いままでのシリーズにはなかった「マイル」の概念を導入している。これは実績モードみたいなヤツで、何かを達成したら通知が入り、「マイル」というポイントのようなものが手に入るというものだ。マイルは役場で様々なアイテムと交換してもらえる。通算○○回虫を捕まえた、というマイルの他に、今日5回虫を捕まえた、というデイリーミッション的なものもある。何でもできるゲームにあえて「やるべきこと」を加えることで、ゲーム内での目的を作っているのだ。
これはゼルダにもいえることで、自由な世界の中でも出会った人の頼みを聞いたり、ところどころにミニゲームのようなチャレンジを仕込むことでよいスパイスになっている。
最近は意欲的なインディーズゲームやスマホゲーが市場を席巻しつつあるが、なんだかんだ言ってやっぱ長いことゲーム作ってきたゲーム屋はいろいろと「わかってる」ように思う(ただの任豚並感)。
おわりに
建設的に意見だけを述べていくつもりが、8割が思い出語りでできたような文章になってしまった。試験1日前になにやってんだろう、僕…
あと、これ書いてる途中にWikipediaが言いたいことだいたい言ってくれてることに気づいてちょっと悲しくなりました。でも文章書くのがたのしかったからヨシ!
夏始まれど、されど休めず
弊校は最近夏休みが始まりまったのだけれど(特定を防ぐためにわざとお茶を濁していく)、夏休みも研究のため学校に通っている。研究の進捗がよろしくないからだ。
だいたいコロナのせい
一体、今年は初手からひどいムーブであった。
例年なら4月ごろに新学期が始まって、手始めにいろいろな人の論文(卒業生の卒論からネットに転がってる英論文まで)を読んで分野の知識を学んでいく。学生実験と並行して卒研を進め、6月かそこいらには立派に研究生活に染まって…というふうに進んでいくものだ。しかし、今年は初登校が6月というスロースタートっぷりである。
まあ、それでも今なお学校に足を運べない大学のみなさまのことを思えばマシなものではあるが…
一応、家で遠隔授業を受けていた時から時間割には卒研の時間が組み込まれていた。その時間を利用して論文を読んでおこう、というわけである。
自分は、その時間就活ばかりしていた。しかも先生のお墨付きで。
学生の本分である学問を差し置いてまで、自分の性格とは…強みとは…みたいなことを毎日延々と考え続けていた。その度に、まったく見えない答えに憂鬱になっていたわけである。
勉強嫌いの限界劣等生である自分に「もっと学問の方をやらせてくれ!」と思わせるほどの苦行、もうあんな経験は二度とゴメンだ。
暇なのに忙しいという恐怖
そんなわけで、研究のスタートが2か月近くも遅れ、しかも実際に手を動かし始めたのは7月からで、もっと言えば7月から今までやってきたことといえば実験に使う材料を作ることだけで(詳細は伏せますが、5g作るのに手際よくて連続2日くらいかかるんですよ…)、とどめに進捗を報告する中間発表会は夏休み明けすぐに入ってやがって、もうなんというか、ワイは頭イタイイタイなのだった。
夏休み前からも授業の間を縫って実験にいそしんではきたつもりである。それでもこのまま発表するにはあまりにも貧弱な進捗しか得ていない。なにしろ材料を作ってるだけだからな。なので、結局夏休みが始まってからも研究活動を続けていくこととなった。ただでさえいつもより短い夏休みなのに!
今は学校で過ごす時間のほとんどが材料調製の反応完了までの待ち時間だ。なので肉体的な余裕は結構あるし、むしろ最近晴れ続きで心身の調子はすこぶるいいくらいである。
が、こうして研究室で反応を待ちつつ先生の目を盗んでもくもくとどうでもいい日記を書いている間にも月日は進み、期限が迫っている。そんなことを考えていると冷汗がだらりと流れる。
そう、研究結果を早く出さねばと焦る一方、反応時間を待つ間は本当に暇なのだ(5時間くらい待つやつもある)。
ただ、いくら焦ったりわめいたりしたところで反応時間が早くなるわけではない。あと、何も結果を残していないので資料作りも進めようがない。今はただ、目の前のやることに目を向けていくしかないというわけだ。
でも幸せならOKです
現状をぼやいてばかりいるが、別にこの研究生活が心の底から憎いということはない。むしろ今年の夏はこれくらいでちょうどいいとさえ思っているくらいだ。
何といっても、今年の夏は外に出づらい。ただでさえ普段から夏休みは引きこもってゲームばっかりして気だるい生活を送っているというのに、今年は今まで以上に引きこもりが加速して体調を崩してしまうかもしれない。
短い夏休みではあるが、できるだけ心身ともに健康に過ごしたいという気持ちはある。中学生みたいに無限のエネルギーがわいてこなくなった自分にとって、心身の健康はその日の趣味へつぎ込めるエネルギーに直結するからだ。毎朝学校へ行くという目的があれば、多少は生活リズムの整った生活を送る助けになる。
それに、毎日家族以外の人間と意思疎通が取れるというのもいい。こういう長期休暇では、自分みたいなコミュ障さんは人と会わなくなる。人と会わなくなるとなんとなく刺激のない日々になり、虚無的な日々になりがちなのだ…業務連絡やたわいない雑談だけでも、引きこもって誰ともしゃべらないよりかはほどよい刺激になる。
毎日早起きして学校へ行くというとダルい気分になりそうだが、毎日やるべきことがあっていくべき場所があるというのはなんだかんだ言って楽しいものである。
もう少しこの生活を続けてみて、また何かあれば更新する。
超弩級限界多忙期間を生き抜いたので、近況報告
色々あり、しばらくの間それはもう限界に限界を極めた限界多忙期間でありまとまった時間と安定したメンタルがなかったのでブログどころではなかった。今日はやっと一息付けそうな感じだったので、経験した事柄を日記程度に書き残しておく。
・ゼミが破綻する
私の所属する研究室では週に1コマ、ゼミ(輪講?)の時間がある。内容としては、当番の人が自分の研究に関連する英論文の翻訳、読み上げを行い、先生含む他のメンバーの質問に答えるといったものだ。
遠隔授業期間中は問題なく行えていたのだが、通学が始まってからはゼミが行えていない。1~5年生が今まで行えていなかった実験がなだれ込んできて先生が低学年の実験担当に駆り出されたのと、授業スケジュールが少し変わったからだ。
自分の一つ前の当番の人で止まっているので、いつ再開するかと思うと気が休まらない。
・実験も破綻する
↑の影響で、学生実験も1度も行えていない。
本来ならば週に3コマくらい実験の時間があるべきなのだが、その時間担当の先生は低学年の実験に対応するのに忙しそうだし、公式から実験スケジュールに関する声明も何1つ出ていない。まあ、あと半年くらいで社畜になる学生より未来ある若者に技術を付けさせる方を優先するのは当たり前か…
でも、高専生の数少ない強みである「実験の場数を踏んでいること」を達成できないのなら、高専の存在意義ってあるのかしら…(ここで「高専は受動的に何かを学ぶ場所ではなく自ら何かを学び取る場所だが?」という正論パンチをしてくるのはだめです)
・テスト期間が始まる
化学工学なんもわからん。機器分析なんもわからん。量子化学なんもわからん。分子生物学なんも分からん。中国語チョット懂。
理系科目何一つ分からないのになんで高専5年生まで来てしまったんでしょうね。
現時点でいくつか返ってきましたが中国語以外総じて爆死でした。なんで高専5年生まで来てしまったんでしょうね(大事なことなので2回言いました)。
・セカンド御社、連絡後1週間以内に履歴書ご請求&面接をテストとモロ被りになさる
1社目に落とされ落ち込んでいる暇もなく次の会社探しを行い、そこそこでかくて名前も知ってる、ゼニも休みも問題なしな会社に興味ありと先生に連絡。取り急ぎ電話をつないでもらい、履歴書等を送る日付と面接日を調整。
結果、次週前半までにPDFで送ってちょ、面接はそのn日後なンでよろぴこ、とのことであった。この時点でテスト1週間前の平日後半。つまり週末+数日の間に1から履歴書を作りまた面接対策を行いメンタルと体調を整えテスト勉強も完璧にしておかなければならないと。そして試験の真っ最中の期間に面接本番をオンライン形式でなさるというわけ。
んん????地獄か???????
前1回履歴書を作っておいたのでそれを型にして何とか作ることができたが、これがなければ本当に破綻していたかもしれない。
今回の試験で爆死したのはだいたいこいつのせい(ということにしておく)。
・ズボンを忘れる
面接当日、スーツバッグの中に問題なくジャケット、シャツ、ネクタイ、ズボン、ベルトを入れて颯爽と登校したはずなのに、ズボンだけ家において来てしまったらしい。
いつも発達ムーブとかいうやつは、絶対に来てほしくない時にだけやってくる。
オンライン面接で上半身だけの登場だったので事なきを得たが、これ現地面接だったらどうするつもりだったんだ。履歴書の件といい、つくづく運だけはいいやつだ。
・コンサータの量を増やす
前病院で初めてコンサータをもらい、自分にはあまり副作用がひどく出ないということがわかったので適正な量にしてもらう(36ミリ)。
こいつはやはりいいね。
タイミングがあればまたどういう効き方をするのか主観的なところを語れたらいいけど、とりあえず端的に言えばカフェインの覚醒感から嫌な焦燥感を抜いた感じでちょうどいい。バチバチすぎず、ダルすぎず、程よい覚醒状態をキープしてくれる。
たまに飲み忘れるのが玉にキズ。
・なんか1次審査受かってました
セカンド御社とはオンラインで1回だけ面接をしたのだけど、この前お受かりメールが届きました。ヨカタヨカタ。つぎは現地でやるらしい。
次はズボンをはけよ。
・適性検査爆死マン
お受かりメールが来た後またメールが来て、それによるとウェブで適性検査をするとのことだった。
こういうのは後に延ばすとひどく陰鬱な気分になるのでとりあえずすぐにやってやることにした(これもコンサータの効果っぽい気がする)。
似たような奴はファースト御社でやっていたのでまあ何とかなるだろうと高をくくってやったら大爆死太郎になりました。死。
よくある国語問題→数学問題→性格検査のコンボで、国語問題はまあよかったんだけど数学問題が本当の本当にひどい結果だった。こんな体たらくでなんで高専5年生まで来てしまったんでしょうね(大事なことなので(ry))
よりによって確率と数列の問題ばっかり出すなし…そいつらはただでさえ嫌いな数学の中でもベクトルの次に嫌いな奴なんよ…!てかわしは数学全般的になんもできんのよ…てか高専生とかいう生き物は微積分とベクトルくらいしかまともにできんのよ(クソデカ主語)…!たぶん半分もできてないですね。死。
・雨続きで心身が破綻する
雨…もとい、低気圧ほど憎いものはない。
雨の日は大体気圧が低く、それがどうにか体に働きかけて体調を崩しやすい。頭が痛くなる人や昔の傷が痛む人もいるそうだが、私の場合は主にメンタルがつらくなる。ふだんから悲観的な方な思考がさらに悲観的になり、人生すべてに張り合いがなくなったような感じがし、考えがまとまらず何もしたくない気分になる。生理ってこんな感じなのかな…(多分違う)
7月頭くらいからほぼ毎日雨続きで、しかもついで感覚で台風並みの風雨も襲ってくるので最悪だ。今なお続いている。もう2週間くらい経つぞ???
とは言っても、実は最近このメンタルに響く辛さが気にならなくなっていた頃だった。何らかの理由で克服したのか、もしくは気象病など屁でもないほどの就活ストレスにさいなまれ続けたせいでストレスの閾値が鈍ったのかどちらかは分からないが。
それでも最近はずっとあまり晴れた気分になることが少ないように思う。感じなくてもやはり多少のストレスは受けているようだ…こればっかりはもうしばらく乗り切るしかなさそうだ。やっていきましょう。
・芳文社のマンガを読み始め、世のヲタクの10年遅れでけいおん!とキルミーベイベーにハマる
この前、Kindleのセールで芳文社のマンガが77円!というセールがあった。
今までマンガにはあまり興味がなかった(純文学しか興味ないね…というわけではなく、ゲームとインターネットに明け暮れていた人生だったのでマンガの入る余地がなかった&知るきっかけがなかった)のだが、せっかく安いしなんか見てみようということになった。
ラインナップとして、専門外の自分でも名前くらいはよく知っている作品(例:キルミーベイベー、けいおん!、ゆるキャン△)が多いようだった。
それらの作品に対して前々から興味がなかったわけでなく、何かとっかかりになる機会さえあればきっとハマるだろうな~、くらいの認識でいたので、これはまたとない機会だと思い買い込むことにした。
自分のことだ、たぶん積読化する気がする…いや、いいんだ、1冊たったの77円なんだから…それに、本は腐らない…いくら積んでもね…知は力なんだもんネ…(ラリった目)
あと、その他いろいろの1巻目だけとか、ネットで評判をみて面白そうだった棺担ぎのクロ。も買った。
どうせハマるのでスピンオフもついでにゲットした(これも77円!太っ腹!)
で、結果。えーはい、予想通りハマりましたね…けいおん!はなんとなく雰囲気といくつかのキャラは知っていたけど(え~と、『あずにゃん』って呼ばれてる子がいて、太眉のおっとりした子がいて…くらい)、実際読むとどのキャラも可愛くてたまらんとですな。
今はむぎちゃんや澪ちゃんにわりとゾッコンな状態であります。過去のヲタクたちと同じ轍を踏んでいる…
名前の通り軽音楽部の女の子たちが主人公のマンガだが、今のところ(2巻まで読んでます)どちらかというと音楽そのものより女の子同士のゆる~い関係を楽しむタイプのやつだ。
見ていて心がキツくなる展開が本当に0なのでただただ心身ともに安心してあの世界に身をゆだねられる。(後々キツい展開が待っているみたいなことがないといいな…いや、あったらそれはそれでなかなか…)
キッツい展開の作品や登場人物の心の葛藤や複雑な人間関係を描いた作品も大好きなんですけど、そういうのはメンタルの余裕というか、MP的なものが大丈夫な時じゃないと視聴のハードルが高いのでね…(最近は海外アニメにもその類の作品が多いような気がする。スティーブンユニバースとか)
同時進行でキルミーベイベーも読み進め中。こっちも案の定ドはまり状態(基本、自分は熱しやすく冷めやすいタイプではあるが…)
十中八九高校生のやすなちゃんと殺し屋のソーニャちゃんの息が合ってるのか合ってないのかわからない掛け合いが本当に心地よくて無限に見ていられます。もう3巻読んでしまった…キャラ単体で見ても可愛いし、キャラ同士の絡みも面白くていい…なんでこれをもっと早く知らなかったんだろう…ソーニャたそハァハァ…(*´Д`)
やはり明るさ全開おバカキャラと落ち着いた真面目系キャラ(たまに爆発する)の組み合わせはどの世界線でも王道オブ王道、最the高なんですよね。なぁ、そうは思わないかねピンキーとトワイ、スターとマルコ、メイベルとディッパー、ナンバー3とナンバー5よぉ?
あとあぎりさんもいいキャラしてますよね…ああいう感じのつかみどころのないキャラが本当に大好きです。
アニメ版もインターネット某所で数話だけ見ました。ソーニャちゃんが思ったよりクールな声で驚いたけど、あぎりさんのほへ~~って感じの声もなんか耳から離れない…OP・ED・内容共に情報量の洪水が起きていてこれもなかなかすこポイントだ。
まだ読んでいない作品もあるが、きっとそっちもハマるんだろうなと思う。我ながら、チョロい男だぜ…
今回買った漫画は、購入してからイマイチ活用しきれず本棚の肥やしと化していたKindle Paperwhiteを利用して読んだのだが、今回マンガこそこいつの真価を発揮できる場所だなぁと気づいた。
今回大量に漫画購入する前までは基本的にPrime Readingで仕入れた本を読むのに使っていたのだが、やはり長時間の集中を必要とする活字は紙媒体が最強らしく、あまりKindleを使えずじまいで…
今読んでいるマンガは流れを追うのに意識を集中させたり考え込んだりする必要のあるシーンは少ないので、タブレット状の端末でサクサクと次々読むのに非常に都合がいい。あとマンガはページ数も多いので紙では持ち運びにくいしね。マンガつながりでは、結構前に「まんがで読破」シリーズが10円で投げ売りされてたのも買ってたけど、なんとなく気乗りせずずっと積読状態でこのことに気づけず…(やはり1冊目に『失われた時を求めて』はマズかったか?)まあこいつらもたまには読んでやろう。
それにしても、今更ハマるとは思ってもみなかったなぁ…当時(2000年代後半~2010年代前半ごろ?)はまだ小学校高学年くらいだったし、当時の自分がけいおんやキルミーを見ても「おえ~、オタクのやつじゃんキモ~」くらいの反応しかしなかったんじゃないかな。それが今はなんということでしょう。立派な陰のオタクになってしまいますた。これが成長ということ、これが大人になるということなんですかね。そうなんですかね(泣)
また、何かまとまって書きたいことがあれば更新しにきます。
5億年ぶりに学校に行った
しょっぱなからトラブルをキメてしまったが、一応自粛期間が過ぎて久しぶりに学校へ行ったのでその時感じたことを書き残しておこうと思う。
ニンゲン、コワイ
朝、人が多い電車に乗るのも久しぶりだった。6月の頭に就職のため電車に乗ったが、その時は夕方から&遠距離だったのでそこまで満員電車の辛さのようなものは感じなかった。ただ、今回は朝の通勤通学電車、田舎とはいえそこそこの混み具合である。東京の電車みたく人と人とがギュウギュウになるほどではないが、腕を軽く広げると人にぶつかるくらいには人がいる。
驚くことに、自分はその状況を怖いと感じた。
別に横にヤーさんみたいなゴツい人がいたわけではない。むしろ若い普通の人だ。なのに、在宅生活で鈍った体は自分の真横に人間がいるだけで脅威だと認識してしまうらしい。通学しながらスマホでポケモンのアニメを見ていたが、なんとなく周りに見られているのではないかという気になってしまいあまり集中できなかった(これは今までもそうだった気がするけど)。
学校、いい(語彙力崩壊)
学校の朝は飛ばして(何があったかは前の記事を見よ)、昼のことを書く。検温を忘れた私は申し訳なさそうに学校の共有スペースで昼食をとり、申し訳なさそうに教室に入った。去年と教室の場所が変わっていて迷いかけたが…
とりあえず、自分の席を確保し周りの人と会話する。もはや隠す必要などないのですべて打ち明けてしまおう。これくらい心を開いても問題ない人が多い今の環境は本当に恵まれていると思う。なんだかんだ自分はそこまでコミュニケーション嫌いではないのではないかとさえ思う瞬間だ。でも実はそうではなくて、たまたま今が奇跡的な環境だから人とよく喋れているのだろうと思う。
さて、授業が始まった。というよりは無の時間だった。とりあえず研究室には入ったが、突然の開校だったので先生たちはまだ準備がほとんどできていなんだそうで。とりあえず研究室に段ボールでついたてを作り、あとは各自宿題をやったり雑談したりして過ごした。学校生活のリハーサルにはちょうど良い。
研究室の自分の席で宿題の作業をしていると、勉強は環境がいかに大事であるかを思い知らされた。ずっと自分の部屋で宿題をするのは本当に集中力が持たなくてつらかったが、ここならなぜかスッと作業に取り掛かれる。アレこれコンサータいらなくね?
多少うるささがあるのと、人の目や会話が多少あるのと、ゲームやスマホがすぐ手元になくリラックスしすぎない環境が、集中するのにはちょうど心地よいストレスになるのだろう。そして人間と声帯を震わせて会話するのは時々ちゃんとやると楽しい。普段はキーボードを通じて電子情報を送ることで会話してばかりなので…
1社目は祈られたが、またなんとかやっていこうという気持ちになれた。
勉強はあまり好きではなくなってしまったが、やはり学校というのはいいものだ。リラックスを司る聖域である家と、集中を司る聖域である学校は分かれていた方が個人的にはやりやすい。もちろん、在宅は在宅で授業中にコーヒーを淹れられるとか気楽でいいとかオナニーできるとかいいところがないわけではないんだけど。
それに、通学中に動いたり日の光を浴びたりすることができるのでシンプルに気分転換になる。人間も所詮は動物なので運動や日光浴で幸せになれるものだ。
いま感じている学校へのありがたみも、きっと1か月くらいしたら完全に薄れるんだろうな…とは思う。いやもしかしたら2週間持たないかもなぁ。